精神分析的心理療法が目指すもの 不安や悩みの解消だけでなく、創造性を開花させる。

1、はじめに

 前回のブログでは、言葉でわかろうとしないことを目指す精神分析的心理療法が悩みや苦しさから解き放つ仕組みと創造性の可能性を開花させることを説明しました。

 今回はもう少し「言葉でわかろうとしない」こととはどのようなことなのかをご説明します。

2、運のいい男

 東郷平八郎は連合艦隊司令官に「運のいい男」という理由で推されました。また東郷が同僚の軍人と町を歩いているとき、前方に馬を見つけた東郷がその馬を大きく避けたところ、同僚の軍人が「いやしくも武人が馬を怖れて道を避けるとは何事か」と東郷をなじりました。すると東郷は「万一馬が狂奔して怪我でもして、本務に障りがあれば、それこそ武人の本務にもとるでしょう」と応えたそうです。

 ところで、意識の及ばないところで環境中のリスクを評価する神経的なプロセスを「ニューロセプション」と言います。「我々は、ニューロセプションを引き起こすような『合図』には気づかないが、生理学的な状態が変化したことには気づく。時として我々は、腹や心臓で何かを感じたり、『この状態は危険だ』ということを第六感で感じ取ったりする」(S・W・ポージェス ポリヴェーガル理論入門)、というものです。つまり言葉でものごとをわかろうとすると取りこぼしてしまう。しかし体からのサインに対して素直に耳をすますことで私たちは、命の危険などとても大切なことに気づくことができるというものです。

 東郷は、この言葉や意識ではキャッチすることができない神経回路からのメッセージを受け取ることで危険を回避していたのでしょう。しかし周囲は言葉を超えた世界を理解できないので「運のいい男」としか東郷を評価できなかったのでしょう。

3、「私」が邪魔をする

 言葉で考えるには、考える「私」が必要になります。しかし私を強く意識するほど、例えば仕事のプレゼンテーションで「恥をかくから失敗できない」、試験で「落ちたら周囲からバカにされる」、試合で「負けるを期待を裏切る」など、様々な不安や心配が湧き上がってきます。「私」を意識するほど私たちは大事な場面でパフォーマンスを発揮できなくなります。

 この自分のパフォーマンス、すなわち創造性の可能性を開花させない「私」をいかに捨て去ることができるのか?これは古来より、仏教や武道、芸事の目標であったと思われます。

 臨済宗の禅では、「両掌(りょうしょう)打って音声(おんじょう)あり、隻手(せきしゅ)に何の音声かある」(白隠)といった公案による修行があります。両手を打つことで音が出るのに、片手の音を説明しろという難癖のような問題です。これを科学的に左手が何秒遅れて右手に当たるからと説明しようとすると、それは言葉でわかろうとする「私」が強く出てきます。ではどう説明しろというのでしょう?このように悩みに悩んで言葉で説明できない境地に至らせることが公案での修業の目的ではないかと思われます。

 徒弟制度も同じです。師匠の家に住み込んではいるが、師匠から芸を教えてもらえずひたすら師匠の身の回りの世話をさせられる。こんな理不尽なことをして芸を身に着けることができるのか?日々考え続けて、もう考えることができないとこまで追い詰めるのは、公案と同じ効果、つまり言葉を捨て去る目的にいざなうためだと思われます。

 武道も同じです。言葉で考えることはそのままおびえや不安につながり、それは「居つき」といって、パフォーマンスを低下させ死を招きます。武道で言葉で考える「私」にからめとられることは、即死を意味するのです。

 ここで示現流開祖の東郷重位のエピソードを紹介します。町中に野犬が溢れて市民に迷惑を掛けた。東郷重位の嫡子・重方と高弟の2人が野犬を残らず退治して帰った。その際に「斬る時に刀の刃は地面にも当たらず、損傷しなかった」という報告を受けた重位は、太刀を取ると「よいか。斬るとはこういうことだ」と言うなり、傍らの碁盤を斬った。重位の太刀は分厚い碁盤を両断し、畳を割き、さらに床下にまで達していた(歴史人より引用)。言葉でわかろうと「私」に捉われている息子に対して、武道とは「私」を捨てることだと重位は示したのだと思われます。

4、「私」を捨てる

 中島敦の小説に「名人伝」があります。弓の名人になりたいと仙人に弟子入りした紀昌が、「九年たって山を降りて来た時、人々は紀昌の顔付の変ったのに驚いた。以前の負けず嫌ぎらいな精悍せいかんな面魂つらだましいはどこかに影かげをひそめ、なんの表情も無い、木偶(でく)のごとく愚者(ぐしゃ)のごとき容貌に変っている」。そして「既に、我と彼との別、是と非との分」がわからないようになっていたそうです。

 この小説が伝えたかったことも、「名人」とは「我と彼の別」がわからなくなること、すなわち「私」を捨て去り、言葉で考えることをやめることができた人を指すということでしょう。

 

 一方で荘子に渾沌の話が出てきます。中央の王である渾沌は、北海の帝と南海の帝をもてなします。渾沌は目も耳も口もなかったので、その2人はお礼として渾沌に目と耳と口を作ってあげたところ、渾沌は死んでしまったというお話です。

 渾沌は言葉に頼らずに「私」というものを持っていなかったのに、おせっかいにも言葉と「私」をもらったがために死んでしまったのでしょう。まるで言葉を得たことで無意識の創造性を忘れ去った私たちのようです。

5、まとめ

 このように「私」が言葉でわかろうとすることが、不安や悩みを生んでいると昔の人は気づいているからこそ、「私」と言葉から逃れる知恵を伝えてきたのでしょう。しかし最近では「タイパ、コスパ」という言葉がはやっているように、私たちは言葉でわかろうとする合理化を極めているようです。比例するように「私」へのこだわりも増してきて、誰かから認めらることがとても気になっているようです。また何でも言葉でわかろうとする心の働きは、何でもお金に換算する現代社会の生きづらさにもつながっているように思われます。

 現代以前は「私」と言葉を捨て去るための知恵と方法は禅の公案のように宗教などが担っていたのでしょう。しかしニーチェが神は死んだと言ったように、すべて合理化してお金に換算してしまう、科学で説明してしまう現代では、宗教の教えに触れる機会も少なくなっていると思われます。 

 一方で精神分析的心理療法は悩みや苦しみを解決するものであることはもちろんです。加えてこの古来より伝わった「私」と言葉の呪縛から逃れ、自分自身でも忘れ去っていた創造性を取り戻す知恵と方法を現代に沿った形で実践できるカウンセリングでもあるのです。

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