アイデンティティ 自分って何? 考えられないものを考えることとは?
1はじめに
アイデンティティ(自己同一性)という言葉は、よく使われよく耳にする言葉だと思います。アイデンティティという言葉は、哲学や心理学で使われていましたが、E.Hエリクソンによって精神分析の用語として用いられました。エリクソンによるとアイデンティティとは、「生育史を含めて時間的に一貫した自分感覚、つまり一貫性と、周囲の他者や同年輩の本質的な部分を共有しているという感覚、つまり斉一性の感覚を有していることを要件とする(精神分析辞典)」とされています。簡単に言うと、自分が自分だという感覚を持ち、かつ社会からもその自分らしさを認められているという感覚を持てることと言えるでしょう。
ところでエリクソンは、ドイツのフランクフルトでユダヤ系デンマーク人の母のもとに生まれました。しかし父親は誰か分かっていません。その後母親はユダヤ系の医師と再婚しています。エリクソンはブロンドで青い瞳の持ち主という北欧系の顔立ちでした。それゆえユダヤ社会からはユダヤ人とみなされず、ヨーロッパ社会からはユダヤ人とみなされる言った、自分とは何者なのか?という問いをずっと抱いていたそうです。この生い立ちがアイデンティティの概念をエリクソンに考えさせたとも言われています。
2 私たちが生きる上でアイデンティティは必要不可欠
芸能人のルーツを紹介するテレビ番組があります。一般の人も自分の家系図を作ることが流行っているというニュースもありました。誰しも自分のルーツを調べて、自分が何者であるか?自分のアイデンティティを確認したいという思いは強いのでしょう。
アメリカでは遺伝子検査を行っている会社が気軽に遺伝子検査によって自分のルーツが明らかになると、宣伝を行っているそうです。その結果アメリカでは自分のルーツ、家族の歴史という自分のアイデンティティ探しのために遺伝子検査が広く利用されていると言われています(Phillips, A. M. 2020)。
このように私たちは自分のルーツを明らかにすることで自分のアイデンティティを確かなものにしたいという思いは強いのでしょう。
一方で社会学者で精神分析家のエーリッヒ・フロムは、個人として自分があると確信できないと、私たちは国家や宗教、権威など大きな集団と一体化することで安心を得ようとすると言っています(自由からの逃走)。自分のルーツをたどることでアイデンティティを確かめたいという思いは、個人のアイデンティティを確かにするものです。しかし過去にさかのぼっても自分のアイデンティティを確かにできない。現在もついている仕事によってアイデンティティを確かにできない。このように自分個人ではアイデンティティを確かにできないとき、私たちはなんとかして自分のアイデンティティを確かにしたいという思いが強くなります。そうすると自分個人で確かなものにできないアイデンティティを大きな集団に求めるしかないなくなるのです。それほどまでに私たちはアイデンティティを確かにせずにはいられないのです。
3 アイデンティティを求める人生航路
精神分析家W.ビオンもエリクソンと同じく、自分のアイデンティティを求める人生だったのかもしれません。ビオンはイギリス人技師である父親のもとインドで生まれました。8歳でイギリスの寄宿学校に独りで送られました。8歳まではインドの乳母に育てられたビオンは、乳母からインドの叙事詩を聞かされて育ったと言われています。後に紹介するビオンの理論はこの乳母から聞いた叙事詩やインド哲学が影響を与えているという研究者もいます。

ビオンはインドではイギリス人として育てられたのでしょう。しかしビオンの精神には乳母から聞いたインドの叙事詩が大きく影響を与えていたと思われます。ビオンには自分はイギリス人なのか?インド人なのか?何人なのか?という自身のアイデンティティに疑問が生じたのではないでしょうか?8歳でイギリスに独りで行くと、イギリスではインド育ちのビオンは生粋のイギリス人とみなされていなかったのかもしれません。ビオンは後に第一次世界大戦に従軍します。従軍することでビオンは自分がイギリス人であるというアイデンティティを求めていたのかもしれません。
4 アイデンティティはつかむことができない
ビオンは「知る」「考える」ということを追求しました。それは自分自身のあやふやなアイデンティティを知りたいという思いもあったと思われます。しかしビオンはイギリス人として従軍しても、イギリス人という実感を得ることができなかったのでしょう。またビオンは精神分析家になるために医師の資格を取ったのも、自分が何者かを知るためだったのではないか?と私は考えています。しかし結局ビオンは自分のアイデンティティを「知る」ことはできなかったのだと思います。なぜならアイデンティティとは、実態のないかげろうのようなものなので、これが自分のアイデンティティと確信を持てることができないからです。
ビオンが自分自身のアイデンティティを探すために精神分析の理論を考え出したと仮定するならば、ビオンが「知る」ということはどういうことなのかについての理論を考えたことに納得がいきます。ビオンは自分のアイデンティティを「知る」ことを目指していたのでしょう。しかしアイデンティティのような実態の「ない」ものについては「知る」ことも「考える」ことができません。それでもビオンは「ない」ものをどうすれば考えることができるかについて考えたのです。「ないことにもちこたえることができたとき、‛ない物がある’、‘その物がない’という内なる思考が発生します(松木、2009)」というように、「ない物」をないと認めて、ないことに耐えることができたとき、私たちはない物について考えることができるようになるとビオンは言うのです。このとき「ない」は考えることができないものから、「ない」ということを考えることができるようになったと、ビオンは言うのです。
理論的にはビオンのように考えることもできるでしょう。しかし、自分にはアイデンティティをつかむことはできないんだと納得して、アイデンティティという「ない」ものがないということにもちこたえることができたとしても、それで自分のアイデンティティについて納得できるでしょうか?
ビオンのように、私たちはつかめないからこそ、余計につかむことにこだわるようになるのかもしれません。しかし無理なものにいどみ続けることはとてもストレスになり、こころを疲れさすものです。
5 こころも実態のないもの 知ることのできないものをどう理解するのか?
ビオンはイギリス精神分析協会の会長を務めました。またビオンはイギリスの精神分析学会で大きな影響力をもっていたメラニー・クラインの後継者だと周囲から認められてもいました。
一方会長を辞めた同じ年にビオンは、イギリス精神分析協会の科学集会で「記憶すること」「わかろうとすること」を捨て去ることこそが大切である旨の講演を行いました。これに続く講演も合わせて、講演の聞き手はビオンの意図が理解することができなかったようです。記憶をしないで、わからろうとしないで、どうして精神分析ができるのかと。聞き手に理解されないことでがっかりしたことがきっかけになったのかはわかりませんが、ビオンはこの講演から3年後にカリフォルニアに移住してしまいました。
イギリスの精神分析学会の会長を務め、学問的な業績も認められていたビオンですが、イギリスでの栄誉と地位を捨ててアメリカへと去っていきました。それはいくら栄誉を得て、かつ業績も積んでも、ビオンは自分のアイデンティティを確信できなかったからだと私は考えます。ビオンは何とかして実態のないアイデンティティをつかもうとしました。しかしとうとうつかむことを諦めたのだと思います。ビオンは記憶することわかろうとすることを捨て去ることを、「記憶なく、欲望なく、理解なく」と言いました。それはアイデンティティのような実態のないものをつかむことはできないとビオンが「悟った」からではないでしょうか?
ビオンはそれまでの知ろうとすることから、知ることを諦めたようです。ビオンは知る代わりに、アルファベットの「O」になると言い始めました。「O」とは松木(2009)によるとビオンが幼少期に過ごしたインドで影響を受けたであろうインド哲学から発想したとのことです。松木は「○○について知ろうとすることではなく、対象そのものになること、すなわち『Oになること』」と説明します。

禅の研究者、鈴木大拙も、東洋的考えは「身をもって感得する」一方、西洋的考えは「知るということに強く訴えて行く」と言っています。ビオンも大拙もアイデンティティなど考えることができないものにどうやって触れることができるのか?それぞれの表現であらわしたのだと思います。
6 知ることができないものを知ろうとこだわることで悩みは生まれる?
カウンセリングで相談される悩みの元は、例えば人間関係なども、理不尽さなどアイデンティティと同じく実態のないものが多いでしょう。そこで私たちは「どうして?」「なぜ?」という疑問にとらわれてしまいます。そしてその疑問を解き明かさそうと必死になります。
ところで臨済宗では公案といって、例えば「隻手の声を聴け」というような、いじわるといってような問いに対して答えを求めます。隻手、すなわち片手では音は出ないのですが、出ない音とは何かを答えよというのです。それはアイデンティティと同じように実態がないものを考えろと言っているのだと思います。考えられないものを考えつくす。それは答えを出すことを求めているのではなく、答えを出せないものがあるということをわからせるために公案はあるのだと思います。そしてもう考えることができないと行きついた先に「悟り」が開けるのだと思われます。ビオンの表現では、「Oになる」。松木の表現なら「対象そのものになる」。鈴木の表現なら「身をもって感得する」となるのでしょう。
カウンセリングで悩みを解決することも、禅の修行と同じと言えるかもしれません。私たちを悩ます、実態のないもの。考えることができないのに考えることにとらわれてしまう。ここから不安が生じるのではないでしょうか?
この考えられないものをどう扱っていくのか?当相談室で提供しているカウンセリング、精神分析的心理療法はこの問いに応えていくことができるものです。ご自身の悩みを根本的に解決したいとご希望の方はぜひ精神分析的心理療法を体験されることお勧めします。