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誰もが経験している「あれっ?鍵をかけたのかな?」確認したい不安な気持ち「強迫」について考える

1 はじめに

今回のブログでは強迫を取り上げたいと思います。強迫には、強迫思考(考えたくもないのにしつこくつきまとう考え)と、強迫行動(やりたくもないのにしつこく駆り立てられる行動)があります(マックウイリアムズ,N 参照)。

 このような強迫的傾向を持つ人は、「実際的で几帳面で、倫理的な要請に対して良心的である。ところがストレスや過度の要求にさらされると、こういったパーソナリティ特徴が症状行動へと凝結し、ついでそれが儀式的なものとなる場合がある(サルズマン,L)」と言われています。

 ところでアメリカの循環器内科医マイヤー・フリードマンとレイ・ローゼンマンは、性格・行動パターンが攻撃的、挑戦的で、責任感の強い人ほど、心・血管疾患になりやすいと考え、このような性格・行動パターンをタイプAパーソナリティと定義しました。タイプAパーソナリティの人は「急げ急げタイプ」と言えます。タフで活動的であり、せっかちで、怒りっぽく、競争心や攻撃性が強く、いつも苛立ち気味です。それゆえいつも切迫感を抱き、過剰なストレスを抱えていると言われています(日本心臓財団 参照)。このようなタイプAパーソナリティも「強迫性」のテーマがかたちを変えたもの(マックウイリアムズ,N)と言われています。

 このように強迫的な人は美徳も多いもの、それが行き過ぎると生き辛くなる特徴を持っています。

2 強迫的な傾向を持つ人の特徴 罪悪感と恥の観点から

 ここからは ナンシー・マックウイリアムズの「パーソナリティ障害の診断と治療」から見ていきましょう(カッコは同書からの引用)。

 強迫的な傾向を持つ人によくみられる諸特徴、きれい好き・頑固さ・時間厳守への関心・出し渋る傾向は、「トイレット・トレーニングの最中に顕著にみられる問題であることに、フロイトは気がついた」といいます。そして「トイレットトレーニングは通常、子どもが自然のままであることを諦めて社会的に適応的なことを受け入れさせられる初めての機会になる」とフロイトは論じています。親は子どもをしつけようとし、子どもはそれに反発します。しかし子どもは結局しつけられることになり、その結果社会の一員として受け入れられることになります。

 トイレで用を足せないと、「もう大きんだからもっと聞きわけよくしなさい」と、私たちは保育園や幼稚園で問題の子としてみられるでしょう。そのとき私たちはほかの子はできているのに自分だけできていないと罪悪感にかられると言いわれています。私たちにとってトイレット・トレーニングとは、社会の一員として受け入れられる代わりに、罪悪感を植え付けられる過程でもあると言えるでしょう。

 このようにすべての人がトイレット・トレーニングを経験することから、強迫的思考や強迫的行為は、「性格的に強迫的な人にだけ生じるものではなく、誰にでも生じうるものである」とも言われています。私たちはストレスがたまって不安が強くなった時、ドアのカギを締めたか?ガスの元栓を締めたのか?気になるときがあります。私たちにとって社会の一員になるためにトイレット・トレーニングを受けることは、しつけをめぐって、自由と反抗のせめぎあいの末、屈服させられるという或る意味屈辱的でトラウマ的な出来事だったのでしょう。それゆえ誰でも強迫的な傾向を持っているのでしょう。

 このように強迫的な傾向はしつけの厳しさが影響していると言われてきました。しかし20世紀になると「満足を先延ばしにすることよりも『ほしいものは手に入るうちに手に入れる』のがよいと考えられるようになった。その結果厳しいしつけによって罪悪感を植え付けるのではなく、「太りすぎていたら人からどう思われると思う」など「恥じ入らせることによって強迫的パターンを育んでいる」と言われるようになりました。私たちは誰でも人からどのように思われているのかを気にするものです。これを精神分析では自己愛と呼んでいます。自己愛はすべての人が気にすることなので、恥をかかされることを避けるために強迫的になるということも、誰もが多かれ少なかれ持っている傾向と言えるでしょう。

 このように私たちのだれもが強迫的傾向を多かれ少なかれ持っており、それは罪悪感と恥が影響していると考えれているのです。

3 コントロールの問題

 強迫的な傾向にあるということは、その起源がトイレット・トレーニングにあるというのがフロイトの見解でした。本当にそうなのだろうか?と思われる方も多いでしょう。しかし「早期の身体的経験をめぐる強迫的力動についての古典的定式化は今も生きている」という臨床的報告があります。例えば健康診断での検尿のときにためらいを感じるのは、私たちがこのトイレット・トレーニングの呪縛に、強烈に影響を受けているとは言えないでしょうか?

 そうすると程度の差はあれ、「結局排便を、自己の悪くてサディスティックで汚く恥ずかしい部分と感じるようになる」というように、上手に排便をコントロールできないということに私たちは罪悪感と恥を感じていると言えるでしょう。それゆえ私たちは罪悪感と恥をかかないようにコントロールしなければいけません。そこで罪悪感や恥をかかないように強迫行為や強迫思考によってコントロールしていると考えられます。

 このように私たちが持っている強迫的な傾向からはコントロールできる、もしくはできないということが大きな問題になります。コントロールできなければ罪悪感と恥をかかされることになるからです。しかしコントロールすることが難しいものもあります。特に感情をコントロールすることは難しいものです。そこでコントロールが難しい感情は、触れないようにしておくことが一番の対処法となります。これを感情の「隔離」と呼んでいます。「言葉は感情をあらわすために用いられるのではなく、隠すために用いられる」のです。

 強迫的傾向を持つ人は、「情愛深い愛着の能力はあるのだが、自分の優しい面を示そうとすると不安や恥を伴わずにはいられないのである」と言われています。自分の感じている気持ちを伝えようとしても、伝えてしまうと責められるのではないか?恥ずかしい思いをするのでは?と不安になってしまい、感じているものを引っ込めざるを得ないのです。ただ「もっともな理由があるとみなせるような怒りだけは受け入れることができる」というように、怒っていもいい理由があるときは怒りを伝えることができるのですが、それでもカウンセリングで「3回も支払いを忘れる」などの間接的な伝え方になってしまうそうです。

4 コントロールの問題から生じる困ったこと

 強迫的な傾向がある人を悩ませることと言えば、嫌な考えが次々浮かんでもそれを止めることができない、あるいはドアをきちんと閉めたのか気になって確認行為を繰り返すといったことが真っ先に思い浮かぶかもしれません。しかしこの強迫観念、強迫行為と言われるものも、実は罪悪感や恥をかくのではという不安を打ち消すために行っているのです。どうにかしてこの不安をコントロールしたいという表れなのです。強迫というのはコントロールの病と言い換えることができるかもしれません。

 そこでコントロールしたいとこだわることから生じる困ったことを見ていきましょう。

①決めることができない

 「生じうるすべての可能性を(空想の中で)コントロールし続けられるように、彼らはすべての選択を保留しようとするが、結局は何も選択できない結果に終わってしまう」と言われています。自分の中にとどめておく限りコントロールを及ぼすことができるけど、いったん決めてしまうとそれは自分の外にあることになるので、もはや自分がコントロールすることができません。コントロールすることができると思うことで不安は減りますが、その代わり決めることができないため、ものごとが先に進まないという困ったことになります。

 また「強迫思考的な構造を持った人は、何が『完璧な』(すなわち罪悪感を感じずにすみ不確実なところのない)選択かがはっきりするまで決定を先送りしようとする傾向がある」とも言われています。自分で完璧になるようにコントロールできれば罪悪感や恥を書かされる不安から解放されるはずです。しかし世の中に完璧というものはありません。ここが足りないのではないか?完璧でないと責められたり恥をかかされるからと完璧であるこかどうかをチェックすることに強迫的になり結論は先送りされます。その結果いつまでたってもものごとが進まなくなるのです。

 たとえば旅行の計画を立てたいのに、もっといいツアーが見つかるのではないかと、なかなか決められないうちに旅行の出発の日が近づいてくる。これはこれで困ったことですが、たとえば人生の一大イベントである、進学、就職、結婚などでは、決められないことが人生に大きな影響を与えることもあるでしょう。

②反動形成 コントトールしたい気持ちとコントロールを手放したい欲求のはざま

 強迫的な傾向がある方は、几帳面で完璧主義というイメージを持たれることも多いと思われます。前に述べたように強迫的傾向のある方は罪悪感や恥をかかないようにコントロールするということにエネルギーを注いでいます。フロイトの説で表現すれば肛門括約筋をぎゅっと占めている状態を保ちたいと頑張っている状態です。しかし強迫的なコントロールは、親や社会から迫られたのを私たちは嫌々受け入れているから仕方なしにやっているのです。ですから「だれもが取り散らかした引き出しを一つは持っているようだ」というように、親への仕返しにと、本当は肛門括約筋を解放して思いっきり出し切りたいという欲求を持っていると言われています。肛門括約筋をぐっと締めて几帳面で完璧でありたいというのは、本当は思いっきり出したいけど、出してしまうと罪悪感や恥をかいてしまうのでぐっと我慢している状態なのでしょう。このように本当はしたいのに、したい気持ちをぐっと我慢して、したいこととは反対のことをしてしまうことを、精神分析では「反動形成」と名付けています。

5 強迫的な傾向を持つ方へのカウンセリング

 「強迫性の人々に対する治療の第一のルールは、ごく普通の思いやりである。彼らは自分でもよく理解できない理由で他人に腹をたてられてきたので、他人をいらつかせるような自分の性質に対して仕返しをしてこない反応を示されると非常にありがたく感じる」と言われています。

 もっともたとえば何回も確認しなければ不安で仕方ない。あるいは嫌な考えが何回も頭に浮かんでくるなど、今困っていることすぐに解決したいと望まれる方は多いと思われます。このようなご要望には行動療法や認知行動療法によって今困っている問題を解決するためのカウンセリングを行います。

 一方でこれまで述べてきたように、罪悪感や恥を感じることを避けるためのコントロールが様々な強迫の症状を生んでいることを見てきました。「ごく普通の思いやり」とは、カウンセリングで罪悪感や恥がとても強く影響していることを尊重し、大切に扱うことも指しているのだと思われます。そのうえで慎重に罪悪感や恥がその方にとってどういう意味を持っているのかを考えていきましょう。罪悪感や恥が自分にとってどのような意味があるとわかることができると、それらに対してコントロールする必要もなくなる。つまり強迫的にならずに済むようになると思われます。罪悪感や恥が自分にとってどういう意味があるのが分からない。分からないものは怖い。だからとにかくやみくもに完璧にコントロールしなければいけないと、不安が高まるメカニズムになっていると思われます。このような罪悪感と恥のコントロールに焦点を当てるカウンセリングとして、精神分析的心理療法を提案しています。

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