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老いとは? 「老年期」に人生を意味あるものにする、こころの成熟とは何であろうか?

1 はじめに 

 老いは誰にでも訪れるものです。今回のブログは誰しも必ず訪れる、そして避けることができない「老い」について考えてみましょう。

 今回のブログで「老い」をテーマに選んだのには理由があります。最近参加した国際会議、これはアメリカや日本などにある精神分析の研究所が持ち回りで開く学会のようなものです。今年は京都で開催されました。会議の最後のプログラムで、日本でも翻訳が出ている著名な精神分析家の講演がありました。高齢のその精神分析家は「老い」について話されました。話の内容は、人生で積み上げた業績ではなく、自分が年をとってできなくなったこと、失ったものを述べるものでした。人のこころについて何十年とかかわってきた精神分析家でさえ、自分が直面した老いによってできなくなること、失うことにどう接していっていいのかわからない。その苦悩が並大抵ではないことことに、ショックと感銘を受けました。このような私の経験から、だれにでも訪れる「老い」について考えてみたいと思いました。

2 老い 「老年期」とは?

 以前にブログで紹介したアメリカの精神分析学者であるE,H,エリクソンの漸成的発達論では、「老年期」はその最後に来るものです。エリクソンの漸成的発達論では、各発達段階において、例えば幼児期では信頼の感覚とそれとは正反対の矛盾する不信の感覚のバランスをとることで生き生きとした関わり合いを経験すると言っています。その経験が幼児に「希望」という人が生きる上で必要なこころの強みを獲得させると言っています。エリクソンはこれを「徳目」と呼んでいます。このような人生の段階を経て最後の老年期に獲得すべき徳目は、「英知」とされています。

 また孔子は論語の為政篇で、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従えども矩を踰えず。と言っています。エリクソンの徳目とは内容が違います。しかし私たちは人生の各段階で目指すべきものがあり、それを積み重ねていくことで成長していくという点では、エリクソンの漸成的発達と似ているところがあると思われます。私たちは歳をとるにつれ、人間的に成熟していくと期待されているとも言えるでしょう。

 一方で最近では、老いはどちらかと言えばネガティブな意味合いで語られることが多いかも知れません。例えば、日本社会の権力の世代交代を目指して述べた見解と言われていますが、「高齢者の集団自決みたいなことしかない」と言った発言がありました。また若い世代へ不利益を与える意味として「老害」という言葉も聞かれるようになりました。さらに若さが美しさ、強さと同じであるという価値観も社会で共有されているとも言えるかもしれません。

 このように、老いることが人間の成熟を生むと期待されている一方で、老いは害になるだけで、若さこそが価値があるとされるとの考えもあるようです。

 今回のブログでは、「老い」についてこの両面から考えていきましょう。

3 老いには価値がある

 もう一度、E,H,エリクソンの漸成的発達論を見ていきましょう。エリクソンは私たちの発達を、幼児期から老年期まで一定の順序で発達していき、それぞれの段階での課題を解決すると、その段階を基礎に次の発達段階に進むと考えました。

 エリクソンは老年期を、「統合、すなわち永続的な包括の感覚と、それに対して絶望、すなわち恐怖と望みがないという感覚の間の緊張のバランスをとろうとしている」と考えています。老年期になるとどうしても自身の「死」が間近になります。「死」を考えれば恐怖によって絶望します。しかし一方で私たちは「死」という恐怖をこれまでの人生の中に組み込み、統合していこうとしています。エリクソンがアメリカで調査したとき、老年期にある人は自身の死を感じならがも、「あい変らず報告者たちは、自分たちの未来を人生そのものの一部として考えている」といいます。限りある時間だから絶望してなにもしないのではなく、限られた時間のなかであっても自分の将来として目標を定めるなど、未来を希望として捉えようとしている人がこの「老年期(エリクソン他)」という本には登場します。

 このように私たちは死の恐怖におびえながらも、自分の人生には意味があったと納得できるように老年期を生きているのだと思います。

 またこのエリクソンの発達段階によると、 私たちは産まれてから段階的に発達課題を解決しながら老年期を迎えます。エリクソンによると、老年期になると、老年期という地点から今までたどってきた発達の課題をさかのぼるようにふたたび対面するようになると言っています(「老年期 エリクソン他」)。つまり人生の集大成として自分の生きた人生を振り返り、自分の人生に意味があったと確認する作業を老年期では行っているのだと思います。

 例えば「青年期」の発達課題は「生殖性」によって、世話すること、養うことを通じて、次世代へと人生のサイクルを作り出していくこととされています。ここで「生殖性」とは文字通り子どもを産み育てることですが、それにとどまらず身に着けた知識や技術を次の世代に引き渡すことも含まれるでしょう。老年期になって人生を振り返ると、親として子育てが上手くいかなかったと後悔することもあります。しかしエリクソンの調査に登場する人は、孫の面倒を見ることで再び青年期の「生殖性」の課題に再び取り組み、意味ある人生にしようと奮闘する人が紹介されています。あるいは留学生のホストファミリーになることで、血はつながっていないが、若い留学生を世話することで「生殖性」という発達課題に取り組む老年期のかかわりも紹介されています。

 また思春期における発達課題は「アイデンティティ」を確立させることです。若いころに仕事がうまくいかず、仕事をすることで自身のアイデンティティを確立させることができなかった人もエリクソンの調査に登場します。この人は仕事を引退してから山奥に夫婦で移住しました。「ここでの成功は、自然が直接しかけてくる挑戦にうまく対応し、その地域の人々と共に働く、という役目を遂行すること」でした。仕事ではうまくいかなくても、仕事とはまったく違う生活によって老年期にアイデンティティを確立することができた例として登場しています。

 このように老年期にはこれまでの人生の各段階で達成された発達課題を振り返り、老年期の発達課題に取り組む「糧」にすることで実りある人生を完成させることができます。いっぽうで過去の発達課題を十分に成し遂げることができなかった人でも、老年期に再度成し遂げられなかった課題に取り組むチャンスも持つことができます。そうすることで同じように実りある人生であったと実感できるのです。

4 老いには価値がない

 このように「老年期」では、これまでの人生を振り返り、うまくいかなかったことも、再度取り組むことで、自分の人生に価値があったと意味づける作業を行うとても重要で大切な時期であると言えるでしょう。

 しかし「老害」など言われてしまうと、私たちは老年期に自分がつちかってきた知恵や技術を次の世代の受け渡す、「生殖性」という発達課題をなしとげることができません。また同様に身に着けたアイデンティティも若い世代から否定されたと感じられるでしょう。このように「老害」という言葉が意味することは、私たちが人生の最後に自分の人生を振り返り、意味のある人生であったとする作業を否定されることになるでしょう。単に年配者を排除するだけでなく、これまで生きてきた人生を否定されるという点では、とても重い言葉だと思います。

 ただ、「老害」という言葉を使って年配者を排除したい若い世代もあと何十年か経つと自分も「老年期」に入ってしまいます。そうするとかつて「老害」と年配者を排除することで年配者の人生を否定してきた人たちが、今度は自分の人生を意味づける機会も失ってしまうことになります。「老害」と声高に叫ぶ人が永遠に若さを保つことができれば問題ありません。しかし私たちは必ず歳を取り、「老年期」に至るのです。にもかかわらず自分が必ず歳を取ることを想像できないのはなぜでしょう?

5 嫌なことはなかったことに

 幼児期の脳では神経細胞であるニューロンをつなぐシナプスが大量に作られます。しかし成長するにつれ、使うシナプスは残され、使わないシナプスは無くなってしまいます。これを「シナプスの刈り込み」と呼んでいます。赤ちゃんからの成長は、文字通り成長であって、私たちは多くのものを手に入れると受け止めています。私事ですが、私が参加しているフットサルには中学生も参加しています。私の感覚ではもう中学3年生になるとまったく中学生にかなわなくなります。自分がサッカーを経験していても、自分の息子に高校生で抜かされたと言う方もいらっしゃいました。これは子どもは成長するにつれ体力・技術が向上するけど、大人は年齢とともに体力・技術も下降する。その交差点が息子が高校生になった時だと、との意味なのでしょう。このように私たちは成長を人生の頂点に向けて進んでいると受け取っていると言っていいでしょう。しかしこのような表面上の華やかな状態の一方で、すでに脳の細胞は多くが失われているという事実が、目に見えないところで起こっているのです。

 また産まれること自体がストレスとの考え方(出生外傷説 O・ランク)もあります。胎内は完全に保護された快適な世界であるから、この世界から狭い産道を押し出され、未知の世界に送り出されることが大きな不安を生み、トラウマになるという考えです。この考えからは、人生とは「失う」ことからスタートすると言えるでしょう。しかし私たちは失うことに対してとても鈍感なのではないでしょうか?子どもの誕生や成長を祝う一方で、失われたことにはお祝いムードにかき消されているようでもあります。

 ところで私たちはストレスにさらされると、そのストレスにどうにか対処したいと対策をとります。この対処法のうちで私たちが無意識に行っているものを「防衛機制」と、言葉は固いですが呼んでいます。ただこの防衛機制にはこころの成熟度合いによって「低次の防衛機制」と「高次の防衛機制」に分けて説明されています。 

 失うものがあるにもかかわらず、その失うものをまったく見ないようにする防衛機制は「否認」と呼ばれています。否認は「低次の防衛機制」に分類されています。なぜなら嫌ものをまったく見ないようにするということは、そこになんの葛藤も生じないからです。葛藤は認めがたい嫌なものを嫌々ながらもこころに留め置くことができるからこそ、嫌なものと嬉しいものの間にぶつかり合いが生じることでうまれるのです。こころが成熟しないと良いものと悪いものをこころに一緒にすることができません。悪いもがこころにあると自分が全部悪いものに感じられ、それはとても恐ろしいことだからです。つまり「否認」は嫌なものは端からなかったことにするのに対して、嫌なものを嫌々ながらもこころに留め置くことができるのは、こころが成熟しているからなのです。

 また「主要な防衛として否認を用いる人々は、性格学的には躁であると言え(ナンシー・マックウィリアムズ」ると言われています。日本はバブル崩壊から失われた30年と言われ、また昨今は物価高の影響が報道されています。あるいは治安に対する不安も大きくなっているようです。しかし私たちは華やかな世界が報道されればそれに注目し、暗いニュースはなかったことにし、華やかな世界に夢中になってしまいます。この時私たちは「躁的」に気分を高め、嫌なこと辛いことを「否認」しているのです。

6 想像する力

 ではどうして必ず歳をとるにもかかわらず、若いときに老年期を否定してしまうのでしょう。

 私たちは実は産まれること自体が失う体験であり、人生は失うことを経験することだとも言えそうです。しかし私たちの多くは、成長という知力・体力の向上に目を奪われて失うことを「否認」していると言えるでしょう。一方で若さで「否認」出来なくなった「老年期」には、私たちはいやおうなしに失うものに直面しなければなりません。失うことを正面から受け入れることはとても怖いことです。だから老年期で失うことに直面し、それを否認できなくなる恐怖を何とか避けたいと考えるようになると思われます。

 ところで低次の防衛機制のなかには、言葉は難しいですが「万能的コントロール」と「原始的理想化と価値下げ」があげられています。まだ老年期にかからない、若さをまだ保っていると信じることができる年齢では、若さがあれば何でもできるという「万能的コントロール」を信じることができます。若さでなんでもできるという万能感によって、老年期の失う恐怖を忘れることもできます。また若さこそ万能ですぐれていると声高に叫ぶ(理想化)ことで、若さに勝つことができない老年期のひとたちを「無能」であるとこき下ろす(価値下げ)ができます。若い自分はすごい、一方で老人は無能だと思い込むことで、老年期の失う恐怖を忘れようとしているのでしょう。

 しかしこのような恐怖の避け方は「低次」と名前がついているように、恐怖の避け方として上手い方法ではありません。なぜなら私たちは必ず歳を取るからです。若さをひけらかし老いることを責め立てた人も、十数年後には自分も老人になるのです。この現実を見ることを避け、若さに万能を求める想像力のなさは、こころが十分に成熟していないからだと言えるでしょう。

 このように歳をとることを想像できずに、若さに万能を求める人が老年期に差し掛かったとき、失うものばかりの現実を「否認」も「万能的コントロール」も「原始的理想化と価値下げ」も出来ずにどう老年期の課題に立ち向かうのでしょうか?老年期の失うだけの現実を見つめ、そこから自分の人生に価値があると意味づけることは相当なこころの成熟が求められます。

7  人生をまっとうするためにはこころを成熟させる必要がある

 これまで見てきたように、私たちが人生の最後をすごす老年期とは、自分の人生を振り返って、これまでの達成できた発達課題を振り返り、あるいは達成できなかった発達課題を完成させる時期になります。これらの作業によって自分の人生が有意義であった、意味があったと納得できるようになるのです。

 しかし老年期になっていきなりこころが成熟するわけではありません。また身体機能などの衰えが目立つという失い続けるなかで人生に意味を持たせることは並大抵のことではないでしょう。そのような過酷な状況で人生を振り返るためには、老年期に至るまでにこころが成熟するように準備が必要になると思われます。見方を変えれば老年期に自分の人生に意味があったと納得できるようにこころを成熟させる準備期間として老年期前の人生の期間があると言ってもいいのかもしれません。

 ところでカウンセリングに皆さんが期待されるものは、辛いこころ、疲れたこころを癒すことかもしれません。たしかにカウンセリングを受けることでこころが癒される効果が報告されています。しかしカウンセリングの効果は癒しだけではありません。カウンセリングを受けることで自分のこころを理解するという大切な効果もあるのです。カウンセリングを受けることで今困っている問題を解決し、こころが穏やかになる癒しの効果は、同時に自分のこころを理解するという、自分のこころを成熟させるプロセスでもあるのです。そのようにカウンセリングでこころを成熟させることで、老いの恐怖に対して低次の防衛機制、「否認」や「万能的コントロール」、「原始的理想化と価値下げ」を用いることなく、老いの現実に立ち向かうことができるのです。

 このようにカウンセリングを受けるということは、将来の老年期に自分の人生を意味があるものと納得するために必要なこころの成熟を促すことでもあるのです。言い換えれば自分の人生を意味ある有意義な人生と実感するための「投資」と考えても良いのかもしれません。生活習慣病を予防するための食生活や生活改善には目を向けられますが、自分の人生を意義あるものにするために、身体の改善と同じようにカウンセリングを考えてもいいのではないでしょうか?

 当相談室では、人生を意味ある有意義にするためのカウンセリングを提供しています。

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