喪失体験による悲しみ(悲嘆)をカウンセリングではどうケアしていくのか?
1 はじめに 私たちにとって大切な人やものを失うこととは?
私たちにとって自分にとって大切な人を亡くす、あるいは大事なものを亡くすことは、大きなショックを受け悲しみに打ちひしがれます。このように自分にとって大切な存在を失うことは強いストレスの要因にもなります。精神分析では、このような大切な存在を「対象」と呼び、その対象を失うことを「対象喪失」と呼んでいます。アメリカの心理学者ホームズと内科医レイは、人生で起きる重大な「対象喪失」にどんなものがあるのかを調べました。
そこには「配偶者の死」「離婚」といったものから、「失業」「ケガや病気」「息子や娘が家を離れる」というものまであります。例えば「配偶者」という人そのものがいなくなることは、物理的に存在している人が存在しなくなるということになるので「外的対象喪失」と呼ばれています。一方で「失業」などは、自分の社会的なアイデンティティ、「ケガや病気」なら健康な自分という自己イメージ、「子離れ」なら親というアイデンティティという心理的に大事にしているものを失うことになります。このようにこころの中の大事なものを失うことは「内的対象喪失」と呼ばれています。このように大事な人や物をなくす時も「対象喪失」ですが、目に見えないこころの支えになっているものを失うことも「対象喪失」になります。そして大事なものを失う経験「対象喪失」は、時には死に至る病気になるとも言われて(小此木啓吾 対象喪失)ように、私たちに大きなストレスを与える要因になっています。
2 大切な人やものを失った時、私たちは悲嘆にくれる
私たちは大切な人やものを失ったとき、その喪失感を自分でなぐさめなければなりません。そうしないと強いストレスにさらされ続けることになり、生きるエネルギーを奪われるからです。この自分で自分をなぐさめることを、「喪の作業(モーニング・ワーク)」と呼んでいます。「喪」という言葉が表すように、お葬式はまさに死者をともらう意味とともに、大事な人を亡くした遺された人たちのこころの整理、「喪の作業」の意味も担っています。

精神分析家ジョン・ボウルビィは「喪の作業」は4段階に渡ってなされると主張しました。すなわち①失ったことに対して無感覚になる。②失ったことを認めない。③失ったことを認めるが、これによって絶望的な気持ちになったり不安が強くなる。④最終的には失ったことに対する思いをあきらめ、別の新しい大事な人やものに気持ちが向く、と言われています。
3 人生は失うこと(対象喪失)の連続
精神分析家オットー・ランクは、産まれる経験自体がトラウマであると言い、「出生外傷説」と名づけました。母親のおなかの羊水に使って安心の世界に漂っていた胎児は、そこから狭い産道を押し出され、まったく知らない世界に放り出される。これは赤ちゃんにとって強いストレスの要因となりトラウマを生じさせるとライヒは言いたいのでしょう。私たちは産まれる瞬間から安住の地を失うという「対象喪失」から人生をスタートさせているのです。
次の人生の「対象喪失」の体験に行きましょう。私たちの脳は、産まれた後視覚や感覚をつかさどる右脳が発達します。その3歳から5歳にかけて言葉を使って論理的に考えることをつかさどる左脳が発達して、やがて左脳が右脳を上書きしてしまいます。いわば左脳が右脳を占領してしまう状態になります(アラン・ショア 右脳精神療法、参照)。この体験はそれまでの自分が経験していた世界の捉え方を一変させることになります。その昔ソ連という社会主義の国がありましたが、それが資本主義の国として生まれ変わってロシアになったことに喩えらるかもしれません。昨日までの社会の在り方が一変するという劇的な変化を想像されるとわかりやすいかもしれません。
また弟や妹が産まれる体験も「対象喪失」になるでしょう。これまで両親から自分だけに向けられていた愛情が兄弟と分かち合わなければいけなくなります。さらにはお兄ちゃん、お姉ちゃんだからと、両親の愛情を独り占めにしていた状況から、愛情をもらうことを我慢しなければいけません。一心に受けていた愛情を手放さなければならなくなるのは「内的対象喪失」」と言えるでしょう。
その後もホームズとレイが指摘したように、人生数多くの「対象喪失」があります。そして最後には自分自身の死という「対象喪失」によって人生は終わりを迎えます。
ところで内田樹は、甲子園に出ることをかけて予選を戦う高校は何千校とあるのに、優勝は1校である。残りの何千校は必ず負けることになります。しかし高校野球の監督はなぜこう負ける確率が圧倒的であるのに、勝つことをデフォルトにするのか?負けることをデフォルトにすべきではないか?という趣旨のことを言っています。私たちは人生は対象喪失の連続であり、最後は自身の死という避けることのできない対象喪失によって幕を閉じます。そうであるなら必ず訪れる死、つまり失うことをデフォルトすべきではないでしょうか?
4 自分の「死」という対象喪失
自分自身の死は、肉体の消滅という外的対象喪失と、自分の精神が失われるという内的対象喪失が同時に起きるというところに特徴があるのかも知れません。死は自分の存在が肉体的にも精神的にも跡形もなく消え去るということになります。そして死んだ後私たちがどうなるのか?死後の世界がまったくわからないということも、私たちは強い恐怖を与えるのでしょう。
「死ぬ瞬間」を書いたキューブラー・ロスは、ボウルビィが提唱した「喪の作業」と同じような過程を経て、私たちは自身の死を受け入れると言っています。具体的には、①そんなはずがないと否認する。②どうして私だけが死の病に侵されなければいけないのか!と怒りが湧く。③何々をするから死なせないで欲しいと神などに取引をする。④否認、怒り、取引などが力尽き、抑うつ状態になる。⑤最後に自身の死を受け入れる。という過程を経て私たちは自分の死を受け入れることができると言っています。自身の死も対象喪失である以上、同じような喪の作業をたどるのでしょう。
しかしながら私たちが自身の死を受けとめることは難しい。キューブラー・ロスは、余命いくばくもない患者に対して、その患者に訪れるであろう死について語らない医師は、実は医師自身が死を恐れているためであると書いています。私たちは死者となったとたんに故人をおそれるようになるのは、本の中の医師と同じく自分自身の死を故人に映し出しておそれているからなのでしょう。

私たちはわからないことをとても恐れます。死んだ後に私たちがどうなるのかまったくわからなくなるからです。インドのガンジス川では荼毘にふしているすぐ近くで人々は沐浴しています。それを観る私たちは驚きを隠せません。死を恐れるあまり現代の日本では死は徹底的に隠されています。にもかかわらずあけっぴろげに死が目の前に現れると、キューブラー・ロスの本の医師のように、私たちはあまりの恐ろしさに目をそむけてしまいます。
生きていることが当たり前である。満ち足りていることが当たり前であると捉えていると、死ぬときあるいは失ったときの自分はまったくの未知の自分になります。知らないことは怖い。だから失うことは怖いのだと思います。私たちが失うことに対して向かい合うのはとても難しいことなのです。
5 カウンセリングを受けることとは、失うことを認めること
カウンセリングを受けることを希望される方もこころの健康を失ったことに悲しみを感じられているかもしれません。しかし見てきたように私たちの人生は、最後に避けがたい自身の死に代表されるように「対象喪失」の連続なのです。そうであるならば、私たちは失った状態をデフォルトとして考えるべきでしょう。満ち足りている状態は例外である。欠けている状態が正常な状態である。ならば如何にして欠けているものをケアしていけるのかと考えた方が人生を建設的に過ごせないでしょうか?
精神分析家松木邦裕は精神分析の治療をレジリエンスに置いている旨を言っています。レジリエンスとは、ストレスや逆境に直面してもこころの安定を保ち、そこから回復しこころを成長させていくことと説明されています。「対象喪失」がデフォルトであるとすると、私たちはストレスを感じや逆境に置かれることこそが常態であると言えるでしょう。ところが満たされている、欠けるところがないことが常態であると受け止めていると、カウンセリングの目標が満たされている状態を回復させることになってしまいます。人生は対象喪失の連続、満たされない状態が通常なので、これではカウンセリングの目標が「ないものねだり」になってしまいます。
私たちがカウンセリング向き合うものは無いものをねだるのではなく、今与えられた資源でどう豊かな人生を築くことができるのかということを目標にするべきかもしれません。このようなカウンセリングの取り組みは、すなわち人生とどう向き合うかということになると思います。とするならば、おおげさかも知れませんが、カウンセリングを受けるという経験はどう人生に向き合っていくのかということに取り組むことになるでしょう。豊かな人生とは満ち足りた状態を作り上げることではなく、欠けている現状を認めたうえでどのように豊かな人生と思えるようになるのかなのです。このような人生の向きあい方と続けることで、人生最大の対象喪失である自身の死に対して向き合えることが出来ると思います。良く生きることは良く死ぬこととも言えるでしょう。
当相談室で行っている精神分析的心理療法とは、満ち足りた状態が状態であり欠けている今は意図せず不幸な状態なのだとと捉える自分をあきらめ、不本意であるが欠けていることが常態であることを認めることを目指すカウンセリングと言えるでしょう。そしてそこからどう豊かな人生