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愛すること愛されることはどういうことなのか?こころの成長という観点から考えてみよう。

1 はじめに

 私たちにとって愛し愛されることはとても大切なテーマになっています。私たちが赤ちゃんからこどもの時期には、母親・父親から愛されたいと望みます。思春期になれば誰かに恋焦がれる、恋愛の悩みが尽きなくなります。大人になっても私たちは、誰かから愛されたいという気持ちをいつまでも抱き続けていると思われます。今回は愛し愛されるという、「愛」について心理的に考えていきたいと思います。

2 愛の向かう先

 フロイトは愛の向かう先によってこころの成長段階に違いがあると考えました。すなわち①自体愛:まだ自分も他者も区別がつかず、愛は他者に向けることができずに自分自身に向いています。また愛は自分自身そのものとして(自分を全体として)愛することはできずに、自分の体の一部しか愛することができない状態です。この状態は私たちがものごとを全体として捉えることができずに部分部分でしか捉えることができない状態と重なると思われます。②自己愛:ものごとを全体として捉えることができるようになっても、愛は他者に向かわず自分に向かっています。フロイトはギリシャ神話のナルキッソスからこのような愛が他者に向けられずもっぱら自分に向かうことを、ナルシシズムと名付けました。ナルキッソスはエコーからの愛の問いかけに気が付かずに水鏡で自分を映してみとれているうちにユリになってしまいました。私たちが自己愛の状態にある時、私たちは周囲の人と温かい愛情をもって接することができずに、ナルキッソスのように自分の世界を生きる孤独な状態になっています。③対象愛:愛が自分に向かっていた自己愛の段階から、自分に向けられた愛を他者に向けることができるようになります。この段階になって私たちは初めて他者を愛することができるようになります。

 私たちはこころの成熟に応じて何を愛してるのか?誰を愛しているのか?に違いがうまれるのです。私たちが目の前の人を好きになったとしても、私たちが本当に愛しているのは違うものかもしれません。愛するということはこころの成熟ととても関連があることなのです。

3 愛を感じるところ

 精神分析を始めたフロイトは、身体のどの部分に「快(満足)」を受け止めるかによってこころの成長がどの段階にあるのかを定めました。すなわち①口唇期:産まれてから一歳ころまでは、赤ちゃんは口を使っておっぱいの飲みます。そこでこの時期は快(満足)は口で受け止めると考えられています。この時期を過ぎてもこどもが指しゃぶりをするとき、不安が強くなって赤ちゃん返りをしているのかも知れません。あるいは私たちが大人になっても、「口さびしい」という言葉があるように、不安が強いときは何かを食べたり、タバコを吸ったりすることで赤ちゃん返りをしているのかも知れません。②肛門期:一歳から三歳ころまでの時期です。この時期に私たちはトイレット・トレーニングをするようになります。それまではおむつの中にいつでも出していたものを、トイレまで我慢しなければならなくなります。この時私たちは肛門括約筋を締めてトイレまで我慢し、トイレで肛門括約筋をゆるめて便を出します。このように私たちは肛門括約筋を使ってコントロールすることを学びます。この便を出すか我慢する、すなわち肛門括約筋を緩めるか締めるかするときに、私たちは肛門で快(満足)を得ると言われています。③性器期:三歳から五歳になると、性器によって快(満足)を得ると言われています。この時期に私たちは、例えばこどもと母親という二人の関係から、父親も入った三人の関係に移ると言われています(エディプス・コンプレックス)。より複雑な人間関係を作ることができると言う意味で、こころがより成熟した段階と考えられています。このように人を愛するために必要なこころの成熟は、性器の成熟に密接にかかわっています。すなわち、性と愛は切り離せないものです。

4 人を愛するということは難しいこと

 こころのより成熟した段階に性が大きくかかわっていると言われると戸惑われる方も多いかも知れません。しかし何か新しい創造的なものを産み出すとき、性愛、すなわち性と愛情が一緒にくっついていなければならないのです。性は日常生活ではモザイクをかけられて避けられるべきものとして扱われています。しかし私たちが何か有意義なものを産み出すときには、性はとても大切な役割を担っているのです。私たちがなにか有意義なものを産み出すには、誰かを愛と性をもって愛することが必要となるです。愛するとは性と愛で人を愛することなのです。

 しかし性は私たちのこころが成熟しないと扱えないものでもあるのです。相手を性と愛情を持って愛するようになるには、先に見てきたようにこころが「対象愛」と「性器期」に進むことが必要になるのです。性にモザイクをかけて見ないようにするのでなく、性の生々しいエネルギーに圧倒されつつも、性を持って愛するようになる。それが成熟したこころのなせる技なのです。それゆえ精神分析では愛されることより愛することに目を向けるのです。 

5 わたしと相手との愛の関係とは?

 精神分析家ビオンは人と人との関係性を3つに分けました。①寄生:相手を自分のために利用するような関係性です。自分のことだけを考え、相手のことを考えない破壊的な関係性と言えます。②共生:自分と相手が一体となっている関係性。お互いが強く依存しあっている関係性をいいます。そこでは二人は関係していますが、お互いが依存しあうだけで何か創造的な何かを産み出すことはできません。③共存:相手と自分は別々の自立した存在であると認め、お互いに自分の成長を促し合う関係を言います。その結果、何か新しい創造的なものを産み出すことができる関係性です。

 私たちが人を愛していると信じているときでも、私とあなたの関係は①寄生かも知れないし②共生かも知れないし、③共存なのかもしれません。愛していると言っても①なら自分のために相手をり利用していることを「愛」と言っていることになります。②なら自分も相手も一見ここちよい関係に感じていますが、そこからはお互い愛してても何も産み出されることはありません。③ならば、私もあなたもお互いに意味のある有意義な新たなものを産み出す愛と言えるでしょう。

 ここまで見てくると誰かを愛するということは、相手を自立した人として尊重することはもちろんですが、それを性と愛をもって愛することが必要になります。そこに愛から新しい何か有意義なものが産み出されるのです。

6 カウンセリングでの関係性

 カウンセリングではつらい体験を癒すことを求められていると思われます。カウンセラーは共感をもって相談者のつらい体験に寄り添います。もっともカウンセリングの目的は癒しだけではありません。そのつらい体験をこれからしないで済むように必要なスキルを身に着けることも大事な目標になります。そのためには相談者が新しい自分に変わる必要があります。しかし私たちはなかなか新しい自分になることが難しいのです。新しい自分になることはとても怖いからです。そうするとカウンセラーも相談者も変わる怖さを避けようと、カウンセリングを居心地の良い心地よい時間に知らず知らずのうちにしてしまうこともあります。ビオンの言った②の共生の状態になっているのです。確かに共生の状態は相談者もカウンセラーも居心地よく心地よいため、カウンセリングがうまくいっているように思えるでしょう。しかしそこには何も新しい意味のあるものは産み出されないのです。カウンセリングで新しい何か意味のあるものを産み出すには③の共存の状態になる必要があります。しかしそこには相談者が変わるという恐怖と痛みを相談者だけではなくカウンセラーも受け入れ、その恐怖と痛みに耐えることが求められます。これをビオンは「負の恐怖=ネガティヴ・ケイパビリティ」と呼びました。

 これまで見てきたように、愛することとは相手をひとりの人間として認め尊重すること。そして愛と性をもって愛することである。そしそのように愛することができるためにはこころの成長が必要である。そしてその条件として愛するとは、痛みつらさを隠さずオープンにしてお互いに認め合う、「負の能力=ネガティヴ・ケイパビリティ」も必要とされるのです。

 このように愛するということを心理的に考えていくと、甘いロマンスとはほど遠いものになってしまうでしょう。しかし甘いだけではロバート・ジョンソンをカバーしたローリングストーンの曲、「LOVE IN VAIN」になってしまうでしょう。何かを産み出す愛には辛さや痛みを伴うものなのです。

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