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 カウンセリングでこころの健康を取り戻す方法とは? こころをコントロールする言う視点

1 はじめに こころのあり様とはどのようなものと考えられているのか?

 カウンセリングは様々な理論があり、それぞれぞれどうなれば治ったと言えるのかという治療目標と、その目標を達成するための技法がそれぞれにあります。カウンセリングに興味を持たれた方がよく耳にするのは認知行動療法かも知れません。認知行動療法では、その人が抱えている悩みや苦しさを解決するために、その人の苦しさや悩みを生んでいる考え方や行動のパターンを変えることを試みます。その結果そのような悩みや苦しさを生じさせないパターンに変えることが治療目標と言えそうです。その他当相談室が提供している精神分析的心理療法もあります。この精神的心理療法のオリジナルである精神分析はフロイトによって始められました。

 今回のブログでは、フロイトが始めた精神分析を題材に、治ることとは何なのか?ということを、こころのあり様をどうとらえているかということに焦点を当てて考えてみたいと思います。

2 精神分析における治るとは?考えることで自分自身のこころをコントロールできるようになること

 フロイトはこころのあり様を二つの形によって説明しました。一つ目は、こころが未熟な状態になっている。つまりこころの中には心地よい状態と不快な状態のどちらかしかなく、不快なものはじぶんのこころに置いておくのは辛すぎるので、自分のこころから外へ放り出してしまう状態です。この状態にこころがある時、私たちは何が起きているのかを考えることが出来ません。ただ不快に感じるものを自分のこころの外に投げ出すことしかできません。この状態をフロイトは一次過程と名づけました。私たちが不安で仕方ないといった状況にあるとき、私たちはどうして不安になっているのか?不安を湧きあがらせている原因はなんだろう?どうすればこの不安をしずめることができるだろう?というふうに考えることが出来ずに、ただただ不安に巻き込まれることがあります。まさにこの状態にあるとき私たちのこころは一次過程の状態に置かれているのです。

 その後現実で起きていることを考えることができるようになると、不快なものを自分のこころから放り出さずに、不快さを我慢して、何が不快にさせているのかを考えることができるようになります。このこころの状態をフロイトは二次過程と名づけました。カウンセリングを受けていると、今自分が何に対して悩んでいるのか?この悩みをどう解決していけばいいのか?ということを考えることが出来るようになります。たとえるなら自分の上空にもう一人の自分がいて、下の現実の自分を冷静に客観的にながめて、何が起きているのかを観察できるようになる状態です。このような自分自身を冷静に客観的に観察できることを、「観察自我」と名前が付けられています。二次過程ができるとそれまでの原始的で未熟なこころのあり様である一次過程は無意識に追いやられました。そしてなにかの理由によって、例えばとてもストレスがかかる嫌な出来事があったなどした時、一次過程が優勢になる状態になる時があります。不安に巻き込まれただただ不安で自分でこの状況をコントロールできない状態です。一次過程は考えることができないこころのあり様なので、不安に巻き込まれている状態というのはあるいうことは、私たちは自分自身の状況を考えることが出来ないということになります。つまり一次過程とは考えることで自分で自分をコントロールができない状態と言えるでしょう。逆に二次過程とは、自分のこころの状態を考えることで自分自身でこころをコントロールできる状態と言えるでしょう。

 精神分析学者エーリッヒ・フロムは、フロイトの治療目標とは 「理性によって非合理的、無意識的な情念を支配することであり、人間の可能性の範囲において無意識の力から人間を解放すること」だと言っています。つまり考えられない一次過程は無意識の状態であり、考えることでコントロールできない。このコントロールできないというのがこころの病気である。ならば考えることができない一次過程を考えることのできる二次過程に成長させることで、こころを自分自身でコントロールできるようにしよう。これが精神分析における治るということだと考えられます。

3 コントロールできないものは怖い。だからこころの外に放り出す

  ところで原始的なこころのあり様である一次過程では、良いと悪いも分裂しています。悪いは不快と同じようにこころに置くことができないので、自分のこころの外に放り出してしまいます。差別なども私たちが集団でこころが一次過程になっていることで生じるのでしょう。

 中世の日本には、「悪党」と呼ばれる集団がいました。この「悪」とは社会を支配している権力者にとって、それまでの社会のルールに従わないという意味で『悪」と呼ばれていました。支配している権力者が善で、まつろわないものは悪になる。ここでも社会全般のこころは一次過程になっていたのでしょう。

 また春を売る場所も「悪所」と呼ばれていました。フロイトが活躍した時代のヨーロッパはビクトリア朝と呼ばれ、性に対してとても厳しい社会でした。例えばピアノの脚がいやらしいと、布でおおって見えないようにしたほどです。人間の性への欲求は厳しく押さえつけられていたため、それが原因で当時はヒステリーと呼ばれる、フロイトが最初に取り組んだこころの病気にかかる人が多かったと言われています。

 宗教学者中沢新一に、「僕の叔父さん 網野善彦」という本があります。中沢は名古屋に住んでいる叔父の歴史学者網野を訪ねていきました。中沢と叔父家族が名古屋郊外のニュータウンの周辺に残された雑木林を散策していたところ、「民家のようでもあるけれど、どことなく水商売風の雰囲気も漂っている」「小さな日本家屋」があらわれました。「生駒庵」という看板の横には「焼き鳥、野鳥もあります」と書いてあります。中沢らが引き込まれるようにその家に入ると、中には「男根や女性器をかたどった石や土の人形が鎮座して」いました。それを見て「居合わせた全員が『しまった』と全員が感じていた」のですが、冷静に後から振り返ると「中世語の『悪』の本来的な意味が、まざまざと活動していた」ことを中沢らは理解したそうです。そして中沢は「むせかえるように濃厚なエロティシズム」「なまなましく、荒々しく、美しい、別の種類の『人間的自然』が、そこに息づいていた」と振り返っています。網野も、「『あれが人間の『自然』なんだよ。ああいう『自然』が没落していったあとに、今あるような世界が作られてきたんだ」と述べています。このような「なまなましく、荒々しく、美しい、別の種類の『人間的自然』は、無意識の一次過程としてこころにあります。私たちはかつてはその「人間的自然」をコントロールできないと怖がりながらも、受け入れることができたのでしょう。しかし、網野や中沢が「しまった」と思ったのは、このような生々しい、コントロールできないから隠しておかなければいけないものが堂々と飾られていたことに動揺したように、私たちはいつの間にかコントロールできない怖さから、コントロールできないものを避けるようになりまた。このお店はもともと名古屋の繁華街の大須にあったそうです。コントロールできないものは自分のこころから放り出すように、このようなお店は繁華街から郊外の雑木林の中に追いやられ、その当時そこでしか生き延びることが出来なかったのでしょう。今の時代ならその雑木林も宅地になり、私たちは「人間的自然」に触れることはできなくなっているのかも知れません。

  司馬遼太郎は「街道をゆく」で、京都北部の山中にある志明院を紹介しています。ここは平安の世に京都市内にいた魑魅魍魎が時代が下るにつき明るくなった市中に住むことができなくなり、山中の志明院に押し込められるように集まってきたそうです。実際に志明院やその背後の山中ではいろいろな不可思議なことが起きるそうです。魑魅魍魎も私たちの理性=二次過程では理解できない、無意識=一次過程にあるものです。私たちは理性で理解できない、科学で説明できないものはなかったものにし、人の生活するエリアから追い出したのでしょう。私たちはコントロールできないものは怖いので、こころから追い出すように、先の「生駒庵」も魑魅魍魎も私たちの住む街から山中に追い出したのでしょう。 このように私たちは、私たちがコントロールできないと感じたものを、「悪」「本能」など呼び、おそれていました。それは私たちにとってコントロールできないことがとても怖いからです。それゆえ怖いものは自分のこころから放り出してしまう。こころの原始的なあり様である一次過程が社会にも反映していると言えるでしょう。

4 コントロールできないものは怖い。どうすればコントロールできるのだろうか?

 このように①私たちはコントロールできないものはとても怖いので、私たちのこころから追い出してしまいます。②もう一つのアプローチは、コントロールできないものはどうにかしてコントロールできるようにしようとするものです。①は、一次過程に私たちのこころがある状態に取る方法。②は、二次過程にある時の方法と言えるでしょう。

 フロイトは、「イドあるところに自我をあらしめよ」と言い、あるいは「一次過程から二次過程へ」と考えていたようです。難しい言い回しですが、不快なことや怖いことを感じても、それをこころの外に放り出さずに、自分のこころで扱えるようになることをフロイトは目指したのだと思われます。先に述べたフロムが説明したように、精神分析の治療目標も、私たちのこころが成熟することを目指すことになったのです。つまり①の方法から②の方法へこころを成長させようというものです。

 ところで鈴木大拙はものごとの捉え方を、①西洋的②東洋的の二つに分けて説明しています。①の西洋的とは、「”知る”ということに強く訴えて行くところが特に西洋的な特色」であり、それは「科学的客観」であり、「言語性を好む」と鈴木は言っています。つまり先のフロムの説明のように、こころで起きていることを科学的に言葉で客観的に理解できるようにする、こころを二次過程に成熟させるという精神分析の目標は、まさに西洋の知的な営みに一致しているのです。

 ところがこの西洋的な捉え方には大きな問題があります。世の中には科学的に言葉で客観的にわからないことが多いからです。例えば生死にかかわる問題は私たちを大いに悩ませるこころの問題と言っていいでしょう。確かに生物学的には生と死は科学的に説明することはできるでしょう。しかし生まれることと死ぬことを生物学的に説明されても、私たちがいざ自分が死ぬというときにその科学的説明で納得はできないでしょう。私たちは科学では説明できないものを求めているのです。

5 コントロールできないものを受け入れる

 ブルシット・ジョブで知られるデイビット・グローバーがフィールドワークでマダガスカルに行ったところ、そのタイミングでクーデターが起き、マダガスカルの政府は倒され、無政府状態に陥ったそうです。グローバーは政府がなくなると社会は大混乱になって大変な事態になるのではと心配しました。しかし郵便も配達されるし、日常生活はいつも通り混乱なく続いていました。

 なぜ政府がなくなると社会は混乱するとグローバーは考えたのでしょう。政府が法律によって社会が混乱しないように、社会の秩序を守っていると考えられているからと思われます。それゆえ政府が亡くなれば社会はコントロールできるものを失って混乱すると考えたのでしょう。ところがその政府がなくなっても社会の秩序が乱れることはなかったのです。

  グローバーのエピソードからは、政府は二次過程、すなわち理性や言葉でものごとを捉えようとする西洋の知に置き換えることが出来るでしょう。政府がなくなった状態は理性でコントロールできないと考えられている混乱状態は、無意識の世界と考えられるでしょう。私たちはこころの政府と言える意識や理性がなくなると、こころはコントロールを失ってまるで「マッド・マックス」や「北斗の拳」、あるいは戦国時代のような無秩序の世界にこころがなると心配で仕方がないのです。だからこのコントロールできないことが余りに怖いので、コントロールできないものをコントロールしようと躍起になるのです。しかし世の中にはコントロールできないものの方が多いのです。それゆえ混乱を恐れて制限のないコントロールをしてしまうのです。理性や意識に頼るということは、コントールできないという新たな悩みを生むのです。

6 コントロールできないという恐怖に耐える

 グローバーのエピソードのように、実は私たちが頼り切っている二次過程、つまり理性と意識でものごとを捉えることが出来なくなくても、そんなに大したことは起こらないでしょう。しかしいくら大丈夫と言われても、私たちはコントロールを失うことがとても怖く、コントロールすることを手放すことが出来ません。これが昔から仏教で言われている煩悩ではないでしょうか?このコントロールできないから、余計躍起になってコントロールすることにしがみつく煩悩を捨て去ることを仏教は目標にしてたのではないでしょうか?このコントロールを手放した状態を悟りと言うのかも知れません。

 精神分析家ビオンは、詩人のジョン・キーツから「負の能力」という考え方を引用しています。私たちは不安になればなるほど、理性と意識に頼って知ることでコントロールしようとします。それでは精神分析が目的とする無意識を知ることはできません。コントロールしたいと不安になる時、「負の能力」によって知ることでコントロールしたいという誘惑を断ち切ることをビオンは治療者に求めたのでした。

 当相談室で提供している精神分析的心理療法もビオンの「負の能力」を取り入れています。最初の問い、「こころの健康を取り戻す」ということに戻ると、私たちはコントロールできない不安からコントロールしたいと、無理な戦いを挑んでいます。この出来ないことをできるようにするという無謀な挑戦がこころの健康をむしばむのではないでしょうか?そこで当相談室の精神分析的心理療法では、コントロールしないと不安になる気持ちに「負の能力」で臨み、理性と意識に頼らず無意識の声に触れることを目指しています。

 内田樹によると、わからないものをわからないものとしてそのままにしておくことができるのは人間だけに備わった能力であるそうです。そして「私たちは『記号がなにものをも意味しない』ことに耐えることによって、『もう一つの次数の高い思考の準位』へ進むことができる」とも内田は言っています。私たちが精神分析的心理療法を受けることで、コントロールすることができないという不安に「負の能力」で耐えるとき、「もう一つの次数の高い思考の準位」に私たちは進むことができるのです。それはコントロールしなければいけないと言うしがらみから解放されるだけではなく、それまで触れることができなかった様々な可能性を秘めた無意識に触れることができるようになることを意味しているのでしょう。その状態が「こころが健康になる」ということだと考えられます。

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