傾聴 相手が自分の気持ちを聴いてもらえたと実感できるためにはどうすればいいのだろう?
1 はじめに
私が大学院を卒業して心理士としてクリニックで働き始めたとき、私にカウンセリングを受けられた患者さんが何回か来られただけで辞められることが続きました。大学院を出たばかりだし、これは自分のやり方が未熟のではないか?こんな自分の技量を疑う考えが湧きあがりました。そして辞められる方が続くことで、疑いようのない確信へと変わってきました。自分の技量が足りないということを自分で認めることは、 私のプライド(自己愛)を傷つけることになりました。しかし、自分の技量が足りないまま仕事をすることで患者さんに迷惑をかけることの方が専門家として許されないという思いの方が強くなってきました。
2 傾聴の訓練 カウンセリング技法の研修会に参加する
私はカウンセリングの技法を学べる研修会を探し、申し込みました。もう十数年前なので記憶も薄れてしまいましたが、何か月か通いました。その研修会では、カウンセリング技法の理論を説明された後、3人一組でロールプレイを行うものでした。ロールプレイとは、カウンセラー役と相談者役を決め、それぞれの役になりきって実際にカウンセリングを行うように練習するという形をとります。ロールプレイを観察して気付いたことを述べる役を加えて、この三人一組で役割をローテーションしてロールプレイを行いました。さらにロールプレイの様子は映像に撮られ、ロールプレイ後に映像を確認しながら講師の先生が助言をしてくれます。
カウンセリングのロールプレイは大学院の授業で経験しましたが、その様子を映像に撮るということは初めてなので緊張のうちに始まりました。この研修会では、カウンセリングを開始時から数段階に過程を分け、初期にはこの技法、中期にはこの技法、終盤にはこの技法と段階に応じて使うと良い技法が決められていました。私たちはカウンセリングを開始した初期という設定でロールプレイを始めました。私がカウンセラー役の時、習った技法を必死に思い出しながら、今はどの技法を使えばいいのかと悩みながら、相談者役の話を聴きました。しかし悩んでいる間に相談者役の話はどんどん進んでいき、ほとんど習った技法を使うことなくロールプレイは終わってしまいました。
一通りロールプレイが終わると、撮った映像を観ながら講師の先生が解説をしてくれます。まったくできなかったと気落ちしている私は、全くできていない自分を映像で再確認することがとても苦痛でした。案の定映像を確認するとまったくグダグダでダメダメな私が映っていました。それに加えて講師の先生は、「う~ん、う~んって、ずっと相づちを打っているけど、そうすると相談者は話せなくなるよ」と助言されました。その助言は私にとっては指摘として聞こえたのですが、確かに映像の私はずっと「う~ん」と相槌を打っています。まったくそれまで自分で気が付いていなかった悪い癖を指摘(助言)され、またまったくできてない自分を映像で再確認させられ、その日の研修の帰り道がとても切なかったことが思い出されます。さらにこの映像はDVDで参加者に配られるのですが、いただいてから未だに一度も観ていないまま、すでにどこにあるのかさえ定かでなくなってしまいました。できない自分を再確認する勇気はいまだに出てきません。

しかし技量が上がらないまま専門家として仕事をしていくことが許されるのか?といった倫理的な思いと、一方でできない自分をさらす恥ずかしさをもう経験したくないという思いに悩みながら、次回の研修会の日は近づいてきました。恥ずかしさというプライド(自己愛)の傷つきよりも、かろうじて専門的倫理性が私の中で勝ち、重い足取りで研修に向かいました。だからといってすぐにカウンセリングがうまくなるはずもなく、できない自分を映像で確認する辛い作業が続きました。
そのようななか、ロールプレイで相談者役をしたとき、カウンセラー役の人は一生懸命私の伝える悩みに応えようとしてくれます。そのなんとかして相談者役の私の悩みに応えようとしてくれる気持ちは伝わってくるのですが、私のこころは悩みに対する解決方法ではなく、この悩んでいる私の気持ちを先に受け取って欲しいと訴えるのでした。カウンセラー役が一生懸命考えてくれた解決策は、確かにその通りなのですが、私の頭の上を超えて行くように感じられました。私も同様にカウンセラー役の時は、どうにかして相談者役の悩みに応えたいと、解決策を一生懸命答えていました。その当時私は話を聴くこと、傾聴するとは、相手の悩みに対して解決策を応えることだと信じていました。ロールプレイを終わって映像を見ながらの振り返りで、私がカウンセラー役に解決策を伝えられるより気持ちを聴いて欲しい気分になったと述べたところ、相手も私がカウンセラー役で解決策を伝えた時、私と同じ感想を持ったと言われました。
ところでその研修会で習う、カウンセリングを始めた初期に使う技法に、「相槌を打つ」、「相談者の言ったことを要約して伝える」といったものがありました。大学院でカウンセリングを勉強したときは、相手の言ってことを相手に返す「オウム返し」を勧める本もありました。それを読んだ私は、「相手が話したことを、オウム返ししたら、相手からわかっていることを訊き返すなと言われるんじゃないか?」「当たり前のことを訊き返すって、人の話を聴いていないと思われるんじゃないか?」と疑問に思っていました。しかしロールプレイで相談者役の私の言ったことを、カウンセラー役にそのまま言い返されたとき、「そうそう、私のその気持ちを聴いて欲しかった」という、気持ちをわかってもらえて話を聴いてもらえているという、とてもうれしい気持ちが湧いてきました。
なぜこの研修会で、うなずいて、相手の言ったことを要約して返すことが技法となっているのか?その意図するところが初めてロールプレイで体験して腑に落ちました。それはうなずき、相づちをうち、言われた言葉を返すことということこそが、気持ちを聴いてもらえていると感じるからです。もう一つ「質問」も話を聴いてもらったと感じる技法だということも実感しました。質問するというのは、なにか相手のプライバシーに踏み込んでいくようで、ためらっていました。確かに出会ってすぐ、根掘り葉掘り訊くというのは相手にとって気持ちよくはないでしょう。しかしある程度関係性が出来上がって来た時には、話を聴いてわからないことを訊くことは、相手にとっては自分に関心を持ってもらっていると感じられると思われます。私の研修でも、相談役の私に、カウンセラー役が質問してくれた時、私の話を一生懸命聴いてくれるからこそ、質問してくれるのだと感じました。

それから私はカウンセリングを始めたばかりの時期には、うなずき、相づち、オウム返し、要約をして返すことを心がけるようにしました。その成果なのか?カウンセリングを続けていただける相談者も増えてきました。
3 相手の話を聴くとき うなずき、相づち、言い返しが傾聴になる理論
コミュニケーションのやり方の一つに、ロマン・ヤコブソンが提唱した「交話的機能」があります。内田樹によると、コミュニケーションを開錠するためのコミュニケーション、例えば電話で「もしもし」と言う場合であると説明されています。ちょっとわかりづらいですが、私がカウンセリングの研修会で、傾聴することとは悩みに対する解決策を示すことだと思い込んでいたように、私たちはコミュニケーションとはなにか中身のある意味のやり取りをするものだとの思い込みがあるようです。そうすると以前の私のように、何かしら意味のあるやり取りをしなければいけないと思い込んでしまいます。そうすると中身がある意味のあるコミュニケーションにしなければ、コミュニケーションが取れていないとプレッシャーを感じてコミュニケーションの臨まれている方も多いのではないでしょうか?
「交話的機能」とは、この意味のやり取りをするコミュケーションを始めるために必要なコミュケーションで、それ自体に意味のやり取りはありません。ただ意味のあるコミュニケーションを始めるために必要となる手続きのようなコミュニケーションなのです。
この「交話的機能」の良い所は、「コミュニケーションを開錠するためのコミュニケーション」ということなので、意味のやり取りをすることがないということだと思います。「もしもし」に意味はないけど、内田樹は、あなたとコミュニケーションを取りたいという「欲望」のみを届けていると言っています。つまり傾聴でいうなら、「あなたの気持ちを聴かせてください」という「欲望」のみが必要であって、意味のやり取りは必要ないのです。私の研修会の体験から言えることは、頷き、相づち、言い換え、要約して返すという技法が、「もしもし」と同じ効果を生んでいたと思います。頷くことが、相づちを打つことが、あなたの気持ちを聴かせてくださいという「欲望」を伝えているのです。それが相手に伝わって、相手は話を聴いてもらったと感じるのだと思います。
人の話を聴く、特に「傾聴」と言われると、相手の伝えたいことをしっかり理解し、相手の役に立つ返事をしなければと身構えてしまいます。それはコミュニケーションとは、意味のあるやり取りをしなければいけないという思い込みにとらわれているからだと思われます。しかし逆説的に一生懸命意味のやり取りをしようとすると、相手からは自分の気持ちを聴いてもらえていないと思われてしまうのです。それは意味のやり取りのまえに、意味のやり取りとというコミュニケーションの鍵を開ける「交話的機能」を行っていない。つまり頷き、相づち、言い換え、要約を伝えるといった、「あなたの話を聴かせてください」という段階を経ていないからだと思います。コミュニケーションの鍵が開いていないのに意味のやり取りをしても、そもそもコミュニケーションが始まっていないので、相手は自分の気持ちをわかってもらえていないと感じるのだと思われます。
4 コミュニケーションは相互交流
職業上の立場、あるいは私生活でも人の話を聴くことを求められることがあるでしょう。そのようなときは、求められている解決方法を返さなければと気負わず、相手の話に、頷き、相づちを打ち、相手の言葉を言い換え、できるなら相手の言ったことを要約して返し、関係性ができてきたら質問をしてみる。このようなシンプルなやり取りを心がけることが、むしろ相手は話を聴いてもらっていると感じることができます。
ところで私が習っている合気道で、「折れない手」というものをやる時があります。どのようなものかというと、二人一組になり、一人は手を伸ばし、もう一人はその手を曲げようとするのです。これは次の順番で行います。①最初は、手を伸ばした人は、絶対に相手から曲げられまいと精一杯がんばります。もう一人の人は、その腕をどうにかして曲げようと頑張ります。②次は、手を伸ばした人は、自分の手が鉄になっているとイメージし、相手はその腕を曲げようとします。③最後は、手を伸ばした人は、自分の手にただ気を通すのみでまったく力を入れません。相手はその腕を曲げようとします。実際に「折れない手」をすると、明らかに③の方が伸ばした手に力が入っていないのに、一番曲げることができないと感じられるのです。私の解釈は、①のように力を入れていると、その力みが相手に伝わって相手も精一杯の力で曲げようとしてきます。一方で③ではまったく腕に力が入っていない、力みがないので、相手も力で曲げようと反応できないのではないかと思うからです。これは一方が力を入れれば相手もそれを感知して力を入れる。反対に一方が力を抜けば相手もそれに反応して力を入れない。このように私と相手はお互いに関連しあって反応しあっているのだと思います。

ところで内田樹は「交話的機能」の例として恋人たちの会話を挙げています。恋人たちはただ愛しているという「欲望」を伝えあっているだけで、まったく中身のない意味のない会話を続けています。しかし恋人たちは、愛し愛されるという欲望を伝え合うだけで、愛し愛されていると満足できるのだと思います。
コミュニケーションも一方が「交話的機能」をもって、相手の話を聴きたいと伝え続けると、それは「折れない手」と同じように相手に伝わると思います。そうすると恋人たちの会話のようにお互いがお互いの話を聴きたいという形になり、話をする両者ともに自分の話を聴いてもらったと満足すると思われます。話を傾聴することは、それが伝わって自分の話も傾聴してもらえるという、お互いに交流の形をとることができるものであると考えています。
5 まとめ
相手の話を聴く、特に「傾聴」を言われると、相手の悩みに対して解決策を出さなければいけないのではないかと身構えてしまいます。しかし逆説的に初めから解決策を伝えてしまうと、相手は自分の話を聴いてもらっていると受け取れないのです。まずは、頷き、相づち、相手の言葉を繰り返す、相手の言ったことを要約して返す、関係ができてきたらよくわからないところを質問する。このような一見中身のないやり取りが実は相手から話を聴いてもらっていると感じられるのです。なぜならこれらの一見意味のないようなやり取りは、「私はあなたに興味を持っています」「あなたの話を聴かせてください」というメッセージになっているからです。さらに一方がこうしたメッセージを送ることで、相手が自分の話を聴いてもらっている感じれば、相手も同じようにあなたの話を聴いてくれるという良い循環がうまれるでしょう。